【COLUMN】#3 本の「匂い」が好き!

 今回は生粋の本好きであるあなたに捧げるコラムです。ではどうぞ!

 

本にとって特別なイノベーション

 古い本の匂いを嗅ぐと気分が落ち着いたり、快感を覚えるというフェティッシュのことを、「Bibliosmia(ビブリオスミア)」と呼ぶ。ちなみに、本に関するフェティッシュな言葉は他にもあって、本を愛する愛書家は「Bibliophilia(ビブリオフィリア)」、本をたくさん集める蒐書家は「Bibliomania(ビブリオマニア)」と呼ばれていたりする。

 

 この「Biblio(ビブリオ)」という言葉はどこか品があって知的な香りをまとっている。「Biblio(ビブリオ)」の語源は、ギリシャ語で小さな本や書物を意味する「Biblion(ビブリオン)」であるが、Biblionという用語は、パピルス製の巻物を意味する「Biblos(ビブロス)」から来ている。私は、たくさんの本が整然と並ぶ様子を想像しているとだんだんビブリオ気分が浮かびあがってくる。

 

 興味深いのは、読者であるあなたも本と聞いてまず頭に思い浮かべるのは冊子状(codex)の書物の姿であろう。だが古代ギリシャ時代の本といえばほとんどが巻物状(scroll)の書物であったことだ。もうお気付きかと思うが、冊子と巻物では読書体験が違ってくる。現在の本の形である冊子本になる紀元2~4世紀まで、古代西洋人は本をパラパラとめくって読むのではなく、片手で軸を持ち、もう片一方の手で少しずつ引き出しながら読み進めていたのだ。

 

 ではなぜ巻物で本を読む文化が衰退していったかというと、巻物は長い文章を続けて読むのには適していたが、冊子のようにページ数を特定することができず再読に時間がかかってしまうところや、紙の表裏に文字が書くことができないので一巻が大判になってしまい持ち運びも不便であった。一方冊子であれば、どのページもすぐに開くことができるし、サイズを小さくすることができれば情報を持ち運ぶこともできる。

 

 たしかに、いまでは当たり前になっているけど、知識を持ち運びできることって、本といえば巻物を室内で読むものだった時代の人にとっては、ドラえもんの四次元ポケットから出てきたくらい衝撃的な発明だったのかもしれない。なんせ、その後本といえばずっと冊子なわけですから。

匂ってこないスマホ

 われわれ人間は、ありとあらゆる有限性に囲まれながら日々を暮らしている。身体、寿命、記憶、言葉、氏と育ち、交友関係、地球の資源と一緒に暮らしていることもそうだ。その生身の限界を手の延長線上にある道具を使うことで、乗り越えてきた。服をまとい、獲物を狩り、食材を保存し、紙とペンを使い、道を舗装し、馬車や車や船を発明し、手紙や書籍を通じて文明を拡大してきた。

 

 自分たちの有限性に問いを立て、試行錯誤の末に道具を発明し、不足している箇所を数々の発明品によって補うことで、生身の身体に道具の技術が組み合わさったハイブリットな存在である人類の歴史を創ってきた。言葉やお金もコミュニケーションのための道具だから、道具に頼らないで生きていける人間なんて一人もいないのである。さらにフェティッシュの観点からみていくと、話はまた一段と興味深くなってくる。

 

 巻物と冊子の話に戻るならば、じつは現代人は、かつて古代人にとって不便であったはずのその巻物を、便利に持ち運べる形に生まれ変わらせ、日常のなかに再び取り込むことに成功しているのである。スクロールという言葉からピンときている読者の方もいるだろうが、その名はその通り、スマートフォン(Smart Phone)だ。※以下スマホに省略。

 

 今や世界各国の人々のあいだで利用されているスマホは、紙とインクとのりという物理的な制限に縛られない電子媒体を活用することで、スクロールして文字や絵を読む文化を再び蘇らせている。仕事からプライベートまで、ありとあらゆる機能をスマホ一台に納めることができるので、近くにスマホがないと不安になるくらい、身体の一部としてスマホを認識している人も少数派ではないだろう。

 

 だがスマホに匂いはない。たとえば、匂いで誰のスマホか区別できる機種が発明されたとしたら、部屋の色々な場所で違う匂いを嗅ぐことになって、到底スマートといえる状況ではいられなくなるだろう。一方で本は自然界にある紙を原料にしているから、一冊ずつで違う匂いがしていたとしても、全体の調和も保たれたままであろう。まさに木と森の関係性である。

 

 また、かつての巻物や冊子のように少しずつ古くなっていく紙の匂いから記憶が甦ってくるような、感覚で通じ合うような時間もスマホにはない。便利さを毎年のようにバージョンアップさせ、人間から仕事を奪い続けているだけの機械である。

 

 AIが進化し機械が人類を脅かす存在になっているといわれている。だが、少数派だとしても、いまだに紙の本を愛するビブリオマニアやビブリオフィリア、そして本の匂いを愛するビブリオスミアが絶滅することはない。もし彼らが絶えるようなことが起ってしまったら、そのときは本当に人類の歴史の終焉を迎えるときなのかもしれない。

 

 神の似姿ともいわれる人間は、自身のなかに高性能の知能を持っている。直観や感覚という認知機構は、機械が読みとり切れない信号を繊細にキャッチして、われわれがいま本来持つべき道具は何なのかを教えてくれているのである。匂いの違いに気が付くという感性も、その高性能の知のうちのひとつであろう。

 

 本の匂いには人によって千差万別で多種多様な情報がくっついている。読書家は、本の内容だけではなくこういう風に本の物体としての特徴も一緒に味わっていく。現代では無駄として選択肢から除外されてしまいそうなわき見や寄り道を繰り返しながら付き合いを深めていく在り方がまだ読書の世界には残っている。近くに本の匂いがないとそわそわしてくるような身体性だってあっていいのである。いやむしろ、なくてはならないほどなのである。

新刊は工場と甘いバニラの匂い

 では本の匂いの話題を軸にしながら、話をさらにかき回して、行先はどこでもいいような旅を続けたい。

 

 知っていようがいまいがどちらでもいいのだが、紙とインクとのりという本を構成する3つの素材があの本の匂いの出どころである。よく本のページはバニラのような甘い香りがするといわれるが、それは紙の原料に含まれる「リグニン」という成分による。

 

 マニアックな話しだが、私は書籍に使われている紙の色が、真っ白ではなく淡いクリーム色であることが好きで、手触りのよい上質紙に日本語が黒い文字で整然と並んでいる様子が格別に好きなのである。本棚に並べている本も、書店や図書館と同じように背表紙を見えるように並べるのではなく、本の小口か天か地がこちら側に向くように陳列している。一目で何の本なのかが判別できずに不便ではあるのだが、見えない分想像力が喚起されるのか、本の知の香りまで視覚的にも堪能できる気がするのでそうしている。

 

 古今東西の情報が入っている淡いクリーム色の紙の束から甘いバニラの香りがするのが本なのである。なんだか、フェチ文学の代表的人物である谷崎潤一郎の『痴人の愛』の主人公のナオミの愛で方みたいになってきた。だが、スマートさの欠片もなく、己のフェティッシュに溺れて生活が狂うことは、自分の人生のスタートラインにやっと立てることと同義なのかもしれない。この世は夢よ、ただ狂えの世界である。かつてのビブリオフィリア、ビブリオマニア、そしてビブリオスミアがそうであったように。

 

 本の匂いに関することで私が個人的に思い出深いのは、書店の仕入れ課で働いていた時期があるので、取次から送られてくる新刊本が入ったダンボール箱が、工場の匂いと新しい紙の匂いで満たされていたことが懐かしい。書店勤めをしたことがある方には特に共感していただけるであろう。誰かの部屋の匂いに染まる前の本の艶やかさは、自分の花粉を運んでくれる昆虫や鳥を香りで誘う植物や、先ほどの『痴人の愛』のナオミのように、読者の欲望を惹きつけて止まない。そして、誰かの手に渡った本は、その人と人生を共に歩みながら、顕微鏡で拡大すると多孔質のスポンジ構造の紙に、持ち主の生活の春夏秋冬の匂いを溜め込んでいくのだ。

私の本が記憶するもの

 詩人の長田弘は『読書からはじまる』という本のなかで、情報というのは「分ける文化」であり、読書というのは「育てる文化」であると明記している。「知らないのであれば話にならない」という風に、情報が増えれば増えるほど、情報によって知るものと知らぬものに分けられ、コミュニケーションが減る。

 

 でも世の中、答えが決まっている問いばかりが跋扈しているわけではない。うまく言えない、言葉が届かない、わかってもらえないとはよくあることだ。だけど、人と人のあいだで伝わってのこるものは、その人の表情や身ぶりや雰囲気やその時々の気分というような、不確かな非情報的なものの方ではないか。その表情や雰囲気の印象的な一瞬の出来事が忘れられない記憶になって残るのではないか。私がダンボール箱に詰まった新刊本の匂いから、書店員時代の思い出を蘇らせたように。

 

 分ける文化が主流になり、育てる文化が育たない現代はとてもつまらない。自分が望んでもいないのに勝手に分けられた有限性の世界のなかで、あなたはこっちであなたはこっちですと、またまた勝手に選別されるように誘導されるのだからたまらない。いま守らなければいけないのは、私たちの内にある自然である。私たち自身の環境を守り、自然を育んでいくべきなのだ。植物を原料とする本は、つながりを失いかけている現代を生きる私たちの内側の自然と外側の自然を、再びつなげ合わせてくれるかけがえのない道具である。

 

 今日も本の匂いに囲まれている。


PROFILE

 

網口渓太 あみぐち・けいた/1991年生まれ、関西出身。ウェブマガジン『objet magazine F』編集長。ZINE『読まれた本』vol.2まで発行中。最近のフェチは、飛行機雲の直線、B5サイズの方眼ノート、大きめのタブロー、kohhの声、人が書く文字。


Objet Magazine F

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