川端康成の『片腕』
川端康成と言えば『雪国』や『伊豆の踊子』が有名であるが、フェティッシュという観点で読むといっそう面白いのは『片腕』である。書き出しはこうだ。
「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。
「ありがとう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝わった。
川端康成『右腕』
当然のことであるが片腕は外せないし、ましてや貸し借りができるものではない。まさに小説でしかあり得ない設定である。ただこのあり得ない設定をあえて描こうとするところに、作者の執着と言ってもよい想念の強さを感じてしまうのである。
小説に戻ると、主人公の男は娘の片腕を雨合羽の内側に隠すようにして自宅に持ち帰るのだが、その道中の、まるで現金3億円が入ったボストンバックが今にも誰かに奪われやしないかと、終始おびえながら神経質に周囲に気を配っているような様子がリアリティがあって読まされる。何なら娘が「やっぱり返して欲しい」と自分の片腕を取り返しにこないかという心配すらしている始末なのだから、相当に神経が昂っているのである。
でも、ゴーゴリ―の『外套』のように全財産を叩いて買った大事な外套が盗まれる展開はこの短編では描かれない。ここで描かれるのは、娘自身と関係を持つことができなかった男が、娘の部分である片腕とは関係を持つことを許されるという物語である。おそらく『片腕』が主人公と娘が現実にあるように関係する小説であったなら、私はフェティッシュを感じることはなかったであろう。
なぜなら、人間の全体像を語る言葉はとても少なく、抽象的な表現に納まりがちだからである。よく見聞きする曖昧な表現に終始しがちな全体に対して、身心を部分的に描写する語彙は豊富にありまた明確である。そうであるならば、主人公の男が娘と部分的に関係を持とうとする意味が変わって見えてもくる。
つまり、身体を含む人間の自己認識がきわめて曖昧であるということは、他者に対する世界認識もまたデタラメになってしまうということである。私たちも同様に相手との初めましての印象を確かめるようにして、出身地や職業や趣味を始め、人と成りを要素や属性に分けて、ディテールを通して知ろうとする。
そうすることで相手に対する印象や自分の答えが合っているか間違っているかに確信が持てるわけではないが、全体よりも語彙が豊富な部分を扱うことで、言葉を使って感じたり考えたり、誰かに相談したり意見を伺ったりすることができる。そうであるならば、主人公にとっての片腕を私たちも持っているはずなのである。
面白いのは、小説の設定で主人公と娘の片腕は会話をすることが可能なのである。
主人公が娘の全体と関係を持とうとすることを、幻影の人間を追っているようなものであると諦念していたとすれば、会話ができる娘の片腕と自宅で逢瀬を重ねられる時間ほど主人公にとってリアリティがある、生きている実感がある瞬間はなかったであろう。そんな永遠の瞬間を短編で表現することができる川端康成という作家の凄さを再確認する。
フェティッシュは全体を要求しない
つまり、フェティッシュというのは全体を要求しない欲求のことなのである。『片腕』の主人公のように、全体よりも部分によって、フェティッシュな夢を的確に描くことなのである。
単なる人間的接触や性的な接触では満足できないという絶対孤独の世界を生きる主人公は、娘の象徴的具現である片腕を借りてくることで、はじめて会話と交流と、そして関係を成就することができる。まさに、フェティシストの鑑といえる人物像である。
このような物語の描き方にご興味がある読者の方はぜひ、川端康成や横光利一をはじめとする新感覚派の作家たちの作品を読んでみて欲しい。横光利一の『機械・春は馬車に乗って』、古井由吉の『杳子』、吉行淳之介の『驟雨』『灰色の街』が入口になるだろうか。
作品を現実の価値観で読みたい読者層からは、新感覚派の作家の小説は女を物にしていると批判されるが、ここまで私が語ってきたような主人公にとってのリアリティという、虚構がベースの世界で起こっている出来事として読んでみると、文字通り新しい感覚味わえる読書体験ができるかもしれない。
PROFILE
網口渓太 あみぐち・けいた/1991年生まれ、関西出身。ウェブマガジン『objet magazine F』編集長。ZINE『読まれた本』vol.2まで発行中。最近のフェチは、飛行機雲の直線、B5サイズの方眼ノート、大きめのタブロー、kohhの声、人が書く文字。
Objet Magazine F
https://www.objetmagazinef.com
