いつか読んでみたいけど原著で読むのはちょっとという、意識しつつも避けてきた本がたくさんある。私の場合は、フェルナンド・ソシュールやロラン・バルトの記号学、折口信夫や柳田国男の民俗学、マルクスやゾンバルトの経済学の本、文学ならカフカやマラルメなんかがそうである。ぜんぜんまだまだあるので、これでごくごく一部です。
じゃあこのまま読まないのかというとそうでもなく、やっぱり知ってしまった以上は読まないと気が済まないのである。何ならそんな彼らのことを理解したいという浅はかな欲すらある。だから本人ではない研究者や作家が彼らについて書いた本を探しては読んでいる。
たとえばいまはカフカを読んでいるのだが、ラインナップはこうだ。頭木弘樹『カフカはなぜ自殺しなかったのか』(春秋社)、吉田眸『カフカのヴィジュアルな語り』(風濤社)、『現代思想「総特集カフカ没後100年」』(青土社)。原著は翻訳の『変身』は読んだことがあって、『城』と『審判』も積読はしているけど読んではいない。本によって著者のカフカを読む視点が変わるので、知識が積み上がっていくというよりも、たくさんのカフカとたくさんのカフカの読者と出会えて「私もカフカ好きかも」となっているところである。
本だけでなく、カフカを題材にしたアニメーションを鑑賞したり、YouTubeの解説動画を視聴したり、SNSで誰かが書いている感想も読んでみたりする。あと、とくに難解本のときが多いのだが、ブックナビゲーションサイトの『千夜千冊』で気になる作家の名前を検索して、ナビゲーターの松岡正剛さんの書評を拝読することも多い。松岡さんは、決して取り上げている本の専門家ではないのに、いつでも読み方が充実しているという読書家の最高峰の存在である。
原著まわりを台風の目にしつつ、色々な人の読み方に肖りながら、著者の存在を知り、思想への理解を少しずつ深めている。すごい長い枕になってしまったけど、今回ご紹介してみたいフェチな人がいる。その方は、日本人ならほぼ全員が名前は知っているはず、でもよくは知らないであろう人である。その人とは『枕草子』の作者、清少納言である。原著ビビりな私はもちろん、原文を読んだ経験はない。でもあの黄色い岩波文庫の『枕草子』はしかと持っている。
先ほどもご紹介した『千夜千冊』の松岡正剛さんの清少納言の読みを拝読して、まさしくこの『OMG』でご紹介せねばならない人だと確信したのである。では、松岡さんのナビゲーションと共に、清少納言に迫っていこう。ちなみに余談だけど、名前の正しい読み方は、清少/納言(せいしょう/なごん)ではなく、清/少納言(せい/しょうなごん)らしい。けっこう間違えている人がいる気がする。
春は曙、夏は夜、秋は夕暮、冬はつとめて。
この言いぶんである。この言いなりだ。海は琵琶湖や与謝や河内がいいでしょう。草花ならば撫子、女郎花、桔梗、朝顔、刈萱、菊、壺すみれがお気に入り。けれども萩はといえば、朝露に濡れていてほしい。御陵といえば、それはうぐひす、かしはぎ、雨の帝のみささぎですよ。そして峰なら摂津はゆづる葉の峰、山城が阿弥陀の峰、播磨の弥高の峰でございます。
好きなテイスト(風情)とアディクション(嗜癖)をあげているだけなのだが、こう、断定されると逃げ場がない。けれども追いこんでいるようでいて、さっと引く。ヒット・エンド・ランなのである。美の遊撃であって、知の遊動だ。
「千夜千冊」419夜『枕草子』清少納言
私は松岡さんの冒頭のこの文章を読んで、清少納言は推定で966年生まれの1025年没の人だから、元祖フェティシストと呼べる存在なのかもしれないと直感した。ここで挙げられている彼女のお気に入りの草花を画像検索してみると、どれも発色がよく小ぶりの花びらが印象的である。花の存在が独立している様子は、まるで彼女の言いぶんのようだ。
一方で、御陵(天皇や皇后の墓所)と峰は、京都や大阪の見晴らしがいい壮大な景色を選んでいる。萩が雨露に濡れていて欲しいというのもそうだけど、清少納言の認知感覚は細胞の深さで、対象の良し悪しを判断しているような、良いもんは良い、駄目なもんは駄目という、迷いのない明快さを感じる。これこそ、現代人が失ってしまったフェティッシュの感覚である。われわれは言葉では知っているが、感覚では分かっていないのである。
松岡さんも千夜千冊のなかで、清少納言のフェティシストな部分をピックアップしている。
清少納言の話題はほとんどおばさんやお姉さんの井戸端トークに近く(宮中井戸端だが)、その中身は趣好談義である。「好み」に類するものだ。
何が好きで何が嫌いなのかをはっきりと言う。言いながら、すばやく比較を入れる。これはのちのちの数寄の趣向の先駆ともいうべきで、アディクションとはいえ、「好み」の「取り合わせ」がさすがなのである。それが世事に速く、ファッショナブルで、それでいて情け容赦ない。
リストのあげかた、それを答える手順、順序、序破急、守破離も巧みだ。わかりやすい例でいえば、猫は背中全体が黒くて腹が真っ白なのがいいと書いたあと、雑色や随身はちょっと痩せて細身なのがとてもよくて、あまり太ると眠たくていけませんわよなどと続け、そういえば小舎人童は髪の先がさっぱり落ち細って、やや青みがかっていると色っぽいなどと付け加える。小舎人のヘアスタイルなどみんな同じだから、これは彼女が好きなジャニーズ・タイプの童だったのだ。こんな放埒なコメンテーターならすぐに出演依頼がくるだろう。
「千夜千冊」419夜『枕草子』清少納言
日本人に対する世界共通の認識に、返事が“あいまい”で優柔不断な民族っていうイメージが昔からあるけど、清少納言とか、粋な江戸っ子とか、高度成長時代の社長たちとか、幼な心に残っている商店街のおじちゃんとかおばちゃんのお客さんとのハキハキチャキチャキとしたやりとりを思い出してみると、少数かもしれないけど、yesとnoを明確に言える日本人が昔は存在したことが分かる。
こういう粋な日本人たちと一緒にいると安心できるんだけど、いまは逆に粋な日本人たちが安心して暮らしずらい社会になっている気がする。資本中心、いいね重視の社会が蔓延した結果、私たちの目の前に日々表れてくるのは、デジタルメディアから流れてくる情報に汚染されてゾンビ化し始めている人たちだ。ゾンビだなんて大袈裟なメタファーだけど、外れてない表現だと感じる。
引用文中にある清少納言と猫とのあいだのたわむれ具合こそ豊かさであり、人生そのものであると私は信じたい。猫から小舎人童に連想が移ろうところとか、興が乗ってくる様子ごと、この存在をありがたく感じていたい。独断と偏見の攻撃を浴びることでゾンビ化し生活の潤いを失ってしまった人たちにとって、1000年以上前に書かれたわれわれ日本人の大先輩である清少納言の『枕草子』は、それこそ細胞レベルの共感と再生能力を秘めた一冊だと感じる。
松岡さんの清少納言の読み方がナビになっているからこそ、そこに合いの手をはさむように、私も連想や解釈を拡げていける。直接原著を読んで、自分で知の躍動を起こしていくのはなかなか難しいだろう。松岡さんも同じように、先達と一緒に思索を深めてこられただろうから、「好み」のリレーがつながりながら、意識しているかいないかに関わらず、意伝子は継承されているのである。
清少納言の感覚と美意識がさらに研ぎすまされるのは、「あてなるもの」や「うつくしきもの」によせる気持ちを披露するときである。「あてなるもの」とは上品な感じがするものといった意味だが、さすがに目が透明になっている。
何をあげたかというと、薄紫色の衵に白がさねの汗衫、カルガモの卵、水晶の数珠、藤の花、梅に雪が降りかかっている風情、小さな童子がいちごなどを食べている様子、というものだ。完璧だ。「いみじううつくしきちごの、いちごなど食ひたる」といった、チゴ・イチゴの語調の連動もある。
一方、「うつくしきもの」は今日の言葉なら「わあ、かわいい」というところだが、これも順番がみごとで、酔わされる。雀の子のちょんちょんしたところや人の後をついてくるところ、幼な子がほんの小さな塵などを見つけて摘まもうとしている仕草、それから、人形の道具類、蓮の小さな浮葉をふっと池から掬いあげたときの小ささ、小さな葵、雁のヒナがすばらしいというふうに続ける。そして最後に、瑠璃の壺が極め付きとやってみせるのだ。これは、唸る。瑠璃の壺とは、今日ならごく小さな香水瓶のようなものである。
もともと「小ささ」「小さきもの」というスモールサイズに気をとめ、稀少性を重視した人である。気象も現象も事象も「少なめ」にこそ目を光らせた。そこは「ほころび」や「足りなさ」に着目した兼好法師とはちがっていた。どちらにも軍配をあげたいが、まずは「小ささの発見」であるだろう。もしも清少納言がそこを注目しなかったとしたら、きっと兼好法師がそのことを綴っていたにちがいない。
「千夜千冊」419夜『枕草子』清少納言
この目で清少納言を見たわけではないし、言葉を通しての間接的な関係ではあるけれど、彼女が小さな童子がいちごを食べている様子や、雀の子のちょんちょんとしたところや人の後をついてくるところによせる気持ちを読んでいると、こういう顔とかこういう表情をした人なんだろうなという、人となりが、自然と頭に浮かんできて、もしかしたら、本人に直接会ったとき以上に、親しみの感情を抱いているかもしれないとすら思ってしまう。
言葉を読んだり書いたりする、言葉だけで世界が作れることの凄さを再確認する。「言葉が全てじゃない」という文句は、言葉で言い尽くした後に気がついた言葉でないと、ただの薄っぺらいキャッチ・コピーでしかない。中身の詰まっていない言葉が同じ土俵に立ってくる世の中だが、その人のフェティッシュがともなわない言葉なんて一読の価値すらないだろう。
でも読者がいる限り、昔の人である清少納言の存在は、本のなかで生き続けられる。しかも、本を通じると興味深いのは、思想的な友好関係が、時代や土地の垣根を超えて、思いもよらない形でつながっていたりするところだ。
松岡さんは1115夜のピエール・ブルデューについて書いた千夜千冊で、「ハビトゥス」という、習慣であり、感覚様式であり、生活習慣であり、趣向であるという概念を取り上げている。また、「人間であること、それは文化を身につけることである」というような言葉も書いている。社会の流行や経済の動向に流されず、宮中での生活を自身の研ぎ澄まされた感覚と美意識の目で書き綴った清少納言の『枕草子』は、ハビトゥスの貴重な資料であろう。
次回の連載ではピエール・ブルデューを取り上げる予定です。ではでは。
PROFILE
網口渓太 あみぐち・けいた/1991年生まれ、関西出身。ウェブマガジン『objet mahazine F』編集長。ZINE『読まれた本』Vol.2まで発刊中。最近のフェチは、飛行機雲の直線、B5サイズの方眼ノート、大きめのタブロー、kohhの声、人が書く文字。
Objet Magazine F
https://www.objetmagazinef.com
